離婚を決意するまでの経緯

当時からかなり時間が経過しているので、正確な記憶が無いです。

と言うより精神的におかしくなっていて、別の人格を作り上げてたんだと思います。

これは「自分ではない別の誰かの事なんだ」なんて思い込ませて毎日を消化してました。

どうやってあの悲惨な時間を過ごしてきたのか細かく思い出せないし、思い出したくもないです。

家族構成

もうすぐ50歳を迎える中年のおっさんです。

専門卒のサービス業、30歳で独立して現在は自営業。

50歳は早寿(そうじゅ)と言うらしくテーマカラーは青みたいですがお先は真っ黒です。

子供3人の5人家族、上の子は社会人、2番目の子も今年四月から社会人になります。

性格

私も”あの人”も基本的には社交的で、社会と関わる事が好きでした。

学校の親子グループ、職場の同僚先輩との集まり、町内会の祭り、フリーマーケットの出店、近隣のイベントなどにも率先して参加してました。

社交的ではありましたが属性は違いました。

私は理想論主義で、確定していない事への期待値や過程を重要とするタイプ。

”あの人”は成果報酬主義で、行動に見合うリターンがあるかを重要とするタイプ。

楽観的と現実的でバランスは取れていた方だと思います。

夫婦関係

20代前半で結婚&出産のいわゆる「できちゃった婚」今で言う「授かり婚」での始まり。

出会いから結婚までの月日が短かかったせいか喧嘩はよくしましたが、時間の力を借りてほとぼりが冷めれば終戦する、どこにでもいるごく普通の関係だったと思います。

変化があったのは仕事を独立して数年ほど経った頃からで、心無い言葉が増え、私の事を軽視する様になりました。

最初の頃は機嫌の悪い周期に入ったんだろうとやり過ごしていましたが、その後も悪化する一方で次第に口も利かない期間が長くなっていきました。

関係の悪化

”あの人”は出産を機に仕事を辞めて専業主婦になりました。

もともと続けたい仕事ではなかったようなので、産後も急いで社会復帰するよりは子供との時間が取れて良いと思ってました。

子供が大きくなり少しずつ手が離れるようになってきた頃、そろそろ経済的に働きだしても良いんじゃないかと、それとなく本人に話すと反応が鈍かったので無理強いはしませんでした。

独立して数年経ち、収入もようやく安定して生活はだいぶ楽になりましたが、同時にその頃から私に向ける言葉が刺々しくなってきました。

「仕事ばかりしてないでもっと家の事をしてくれ」

「たまの休みで家にいるなら寝てないで子供と遊べ」

「普通の家の父親はもっと家の事を手伝ってるんだから見習え」

どれもやっていない事は無く、むしろ意識してました。

求められるレベルに達してないと言われればそれまでですが、ここまで言われる筋合いは無いです。

「もっと父親らしくできないの?した方がいいんじゃない?」

子供達の前で言われた時は堪えました。

さすがに限界だったので話し合いの時間を作り、考えを聞かせてもらいましたが正直何が言いたいのか分かりませんでした。

長引かせたく無かったのでこちらが折れ一度は終息しましたが、数日後にはさらに関係が悪化していきました。

家に入れない

その後はどちらからも歩み寄ることはしませんでした。

毎晩、仕事で帰る時間が遅かったので、子供達との距離がどんどん遠のく感覚がありました。

実際そんな事は無かったかも知れないですが、そう言う思考になってました。

”あの人”は専業主婦で常に家にいるので、必然と家の主導権は”あの人”が持つようになりました。

子供達も”あの人”側にいる、気のせいではなくそんな空間が実際出来上がっていました。

少しずつ孤立していきました。

家族全員が自分の事を悪く思ってるんじゃないか?と考えるようになりました。

家に帰るのが怖くなりました。

”あの人”と顔を合わせない日が多くなると同じく、子供達の顔も見れない日が多くなりました。

仕事帰り深夜の帰宅、ドア窓から明かりが漏れていると”あの人”に会うかも知れないと、怯えるようになりました。

明かりが消えるまで意味もなく近所を歩いて時間を潰しました。

家に入れても、扉一つ開けて子供が寝てる部屋まで怖くて進む事ができませんでした。

”あの人”がいるからです。

誰にも会わずに入れる物置部屋があったのでそこで寝るようになりました。

本格的に家庭内別居がはじまりました

人格の変化

ゴミみたいな毎日で、そこから心身共に壊れていくのは早かったです。

精神的に追い詰められて、少しずつ人格が変わっていくのを感じてました。

どちらかと言うと「陽キャ」に分類されるような人間で、いつも楽しそうに笑ってる印象をもってくれている人が多かったと思います。

それが自分の強みだったし、そんな自分が好きでしたが、正反対になっていきました。

最初に異変を感じたのは、人と話すことに抵抗ができた事です。

仕事上、常に人と接するのでこの変化は大ダメージでした。

人の顔が見れない、といか怖い。

会話が続かない、というか終わらせたい。

笑顔になれない、というかイライラする。

仕事は仕事と割り切るんだと思っても、感情がついて来ないんです。

怒りの沸点がものすごく低くなって、気に入らない事があると一瞬で頭に血が上り、感情的になってしまうんです。

良くない事だと自覚がある分、感情を抑えられない自分に腹が立ち、更に怒りが倍増してしまうという完全なる負のスパイラルハリケーン。

心療内科に通院していた時期もありましたが、これと言って効果は無く根本にある家庭環境を解決しない事には収まるはずもありませんでした。

トラブル

ある日突然起こる事なんて大抵はろくな事がありません。

いきなり会社のテナントから出て行ってくれと通告されました。

内容は詳しく書けないですが、こちらになんの落ち度もなくて100%大家さん側の勝手な都合でした。

こんな事が人生で起こるのか?いつもの日常があっという間に別世界になりました。

「はい、わかりました」なんて引き下がるわけにいかないので、不動産屋を交えて何度も話し合いをしましたが、出て行ってくれの一点張りで交渉の余地もありませんでした。

連日そんなやり取りをしてるので職場の空気は悪くなり、気にはなっていましたが正直ケアする余裕はなく物件交渉を優先してました。

三か月後に出て行ってくれと最終通告がきました。

このままではどうしようも無いと思いダメもとでこの場所を買い取りたいと提案しました。

このまま追い出すなら多額の立ち退き料を請求する事、その額を払えないなら提案も考えて下さいと伝えました。

不動産屋さんに相場を聞いたら異次元の「億レベル」だったので、現実味は全くありませんでしたが、何もしないで追い出されるのは納得できませんでした。

大家さんもかなり困惑してましたが、不動産屋さん、弁護士さんを交えた協議の結果、約一ヵ月以内に提示する金額を全額用意する事、できなければ三か月後に完全撤退することで合意しました。

首の皮一枚つながった感じでしたが額が額だけに不安しかなかったです。

社会からの評価

翌日から思い当たるところ全てに交渉しに行きましたが、現実は想像以上に厳しかったです。

それも当たり前で、当時は二つの店舗で営業をしてましたが売り上げは完全に個人レベル。

こんな状況になるなんて思っても見なかったので、決算書は節税中心でとても誇れる数字にはなっていませんでした。

日頃から付き合いのある銀行にお願いをしましたが、なんど頭を下げても断られました。

大手のメガ銀行に至っては、見下された態度で鼻で笑われ、話も聞いてもらえない所か、この売り上げでどうやって返済できるのかとお説教までいただきました。

何件の銀行を回っても程度は違えど、全然ダメでした。

知人、取引先の紹介で金融関係の方にも相談しましたが、会社の売り上げに対して借り入れ額が大きすぎるので難しいと言われました。

なにか他の方法は無いかスカスカの頭で一日中考えてました。

悩みましたが実家に事情を伝えてお願いをしました。

すぐに折り返しの返事があり一千万までなら貸すよと言ってくれました。

ありがたかったですが内心は複雑で、長年勤めた会社を定年退職してのんびり余生を過ごしてる親から財産の大半のお金を借りてまでやることなのか?と罪悪感がありました。

それでも満額にまだ全然届かないので、藁にもすがる思いで心を殺し”あの人”のご両親から借り入れできないかと相談することにしました。

これまでの流れと今の状況をはなし、まだ全然お金が足りないのでどうにかお願いしてもらえないかと頭を下げました。

返答は「NO」でした。

「好き勝手やってきて困ったときだけ助けてくれなんて都合が良すぎる」との事です。

さすがにこの状況なら助けてくれるだろうと内心は思っていただけにショックでした。

同時に”あの人”とは完全に終わりだと確信し、ダメだったらもう仕方がないやと開き直った感じになりました。

すぐ実家に連絡して、自分でなんとかするからお金は大丈夫になったとお礼を伝え、親から借りる事をやめました。

一生分、頭を下げてお願いし続けた約一ヵ月、残りの日までは諦めずにできる限り行動しました。

ありがたい事に、一つの地銀の方から借り入れ審査が通る見通しがあると連絡が入りました。

困っているときに手を差し伸べてくれた人、無視する人、突き放す人、自分だけが大事な人。

約一ヵ月の間で社会は自分をどのように評価しているのかがはっきり分かりました。

数日後、正式に借り入れの審査が通って提示額を用意できました。

大家さん側の親族から多少の嫌がらせはありましたが、なんとか売買契約も完了して突然はじまった立ち退き騒動はなんとか乗り切ることができました。

ただし、当時15人程いた職場の仲間達は一人を残して全員辞めてしまいました。

離婚の意思を伝える

大きな借金をしてまで守った場所も、一緒に働いてくれる仲間がいなくなりました。

正確には一人残ってくれましたが、これからの返済が不安で仕方無かったです。

二つあった店舗のうち売り上げの小さい一つを閉めました。

根本的に人手が足りないのと、スタッフ募集をかけて一から立て直す気力が無かったです。

その頃には家を出て、職場で寝泊まりする生活でした。

固いソファーで寝ていたので背中はいつも痛いし、冷暖房も節約のため極力使わずだったので、夏は灼熱、冬は極寒で体は全く休まらなかったです。

体調は常に良くなかったし、相変わらず人との関係を避ける性格は治らず、それどころか悪化する一方で経営はまさに火の車でした。

毎月の返済は重たく利益が残らないので、少ない貯蓄を崩して家に生活費を送ってました。

家を出て一年以上過ぎた頃に離婚の申し出をしました。

こちらの意思を伝えると驚いた様子で、まさか離婚したいと言うなんて思っても見なかったという反応でした。

こちらからすると離婚を考えていなかった事の方が驚きでした。

我慢を続けていれば、いずれもとに戻る時が来ると考えた時期もありましたが、一番は立ち退き騒動の際になんの力にもなってもらえず、逆にあしらわれた事が決定的でした。

時期は下の子が高校を卒業する年の三月、生活費としてそれぞれの子が就職するまで毎月一人9万円を送る約束をしました。

当時は三人ともまだ学生だったので27万円を毎月送っていました。

子供との連絡は特に制限はなく、好きな時にあっても良い。

財産分与は離婚時にそれぞれが保有しているもので相手には求めない、借金がある場合は相手に返済を肩代わりさせない。

借金を相手に肩代わりさせないというのは、この段階で私には莫大な借金があったので、これに関しては自分自身で返しますと言うせめてものけじめのつもり伝えました。

大きくこんな感じで約束して互いに合意しました。

この時に失敗したのは文面にしっかり残して置かなかった事です。

数年後この日のやり取りを物理的に残して置かなかったせいで、言った言ってないの典型的な「水掛け論」が始まり現在も離婚できないでいます。

認識のズレもあったかも知れないですが、大きくは”あの人”の妄想が入ってしまって都合の良い解釈にすりかわっている事が問題でした。

今現在

下の子が高校卒業する年での離婚は成立せずに今も別居したまま離婚協議中です。

進学したので今度は大学を卒業するタイミングで離婚をするという話になっていますが、その際の要求が次から次へと出てきて気が狂いそうでした。

再来年三月の卒業で子供三人全員が社会人になります。

今後”あの人”と関わる理由が完全になくなります。

今までは子供が一緒にいたので我慢していたこともありましたが、その時が来たらもう躊躇なく行動するつもりです。

だいぶ掻い摘んでの流れですが、いま現在までの経緯です。

思い返すと籍を入れて25年、まとな夫婦生活だったのは5.6年あったか?という感じで後半の10年以上は会ってもいないです。

正直、顔を覚えていないし、声もわかりません。

一日でも早く離婚して、言葉通りですが人生をやり直したいのが本音です。

自身の主観、偏見が盛りだくさんの文章になりますが現状整理のひとつとして書いていきたいと思います。

改めて思うんですが

他人になるのって大変です。

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